D. H. ロレンスは一見不思議なことを述べている。科学とキリスト教精神は非自己性(unself)で一致するというのだ。
 自己Selfのとりかたにもよるが、普通、科学は自我、同一性と関係していると言えよう。確かに、本来の自己とは関係しないと言えよう。
 ではキリスト教はどうなのか。これは難しい。自我において、隣人愛を主張するならば、それは自我的になるだろう。隣人・他者は本来の他者ではなく、同一性の他者である。
 もし、自己を凹iをベースにする個とするならば、確かに、科学は非自己的であり、また、キリスト教も非自己的である。
 ロレンスのキリスト教・近代観は凸i中心性を意味する。そして、自己とは凹i中心性であり、それは差異、感覚を意味する。
 そう、前者は物質性であり、後者は精神性である。
 だから、ロレンス哲学の獅子と一角獣の闘争とは、自己と非自己、差異と同一性、精神と物質との闘争と言えよう。
 ここまでは問題がない。
 しかし、問題はロレンスが前者を否定する事態である。ロレンス哲学、王冠=聖霊哲学によれば、対立の調停が根本的テーゼであり、単なる否定はそこには存在しない。
 しかしながら、自我を否定するとき、自己の肯定が生起するが、それは、超越的存在への融合を意味しよう。第三象限の事象が生じる。
 ロレンスの自己論の問題はそれが個を喪失することである。そうではなく、自己の肯定とは個の肯定であり、同時に、他者肯定である。すなわち、自己=個=他者という図式が生じるのである。
 では何故、ロレンスの場合、自己等が消失するのか、それが大問題である。
 作業仮説であるが、ロレンスの精神はMP1(虚軸点)に存するのであり、MP2(実軸点)が劣位なのである。
そのため、MP2における自我VS個・他者の力学が希薄になる。その結果、自己=個が超越的他者凹に同化、吸収されてしまうのではないだろうか。
 ロレンスの場合、自我、キリスト教はマグナ・マーテルと重なるので、自己肯定は父権主義、男尊女卑になるということではないだろうか。
 これでいちおう説明ができたが、ロレンスの混乱は自己が男性的である点に存するだろう。
 つまり、超越的存在をロレンスは聖書に倣い、「父」として捉えているのであり、そのため、自己が男性的になると考えられるのである。
 しかしながら、ロレンスは「父」は「母」であると述べているのである。これは理論的混乱と言えよう。
 ロレンスの直観では超越的存在は「父」ではなく、「母」なのである。しかしながら、ロレンスは女性原理、母権原理を恐れて、「父」、男性原理、父権原理に固執したと思われる。ここにロレンスの自己矛盾があると考えられるのである。
 思うに、逆説的に凸iの自我原理がロレンスには弱いのであり、それが、凹iの個・他者原理への没入を恐れて、父権原理、男性原理を反動的に主張したのではないだろうか。
 そう、凹iの自己・個・他者原理がロレンスにおいて主導的であるために、根源において、凸iの自我・同一性原理を消失させるのであり、それをロレンスを恐れて、反動的に父権原理、男性原理を激しく主張したのではないだろうか。 
 言い換えると、MP1(虚軸点)に対するMP2 (実軸点)の反動である。
 あるいは、精神に対する物質の恐れと言えるのかもしれない。とまれ、前者が優位であり、後者が劣位なのである。
 結局、このような恐怖の力学が生じる原因は、MP1とMP2との未分化様態に存するのではないだろうか。もし、整然と分離できれば、自己・個・他者・母権への恐れは生じないと考えられる。
 先に、D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11086583581.html
を説いたが、この揺動力学とは未分化力学ということになる。