D. H. ロレンスの思考は複雑怪奇である。
 王冠哲学で、光(一角獣、「子[キリスト]」)と闇(獅子、「父」)との闘争を描き、その超克として、王冠=「聖霊」を説くのである。
 「父」=闇は母権的自己と見ていいだろうが、「子」=光が難しいのである。思うに、それは、近代的自我における「愛」、自己同一性的「愛」のように思える。それは、他者を同一性化しているであり、押し付けの「愛」になると考えられる。ロレンスが批判するキリスト教的「愛」の精神はそのようなものと思われる。
 つまり、近代西欧において、キリスト教的精神は、自我、同一性自己を介した「愛」の精神になったということである。
 本来ならば、他者は差異であるが、それが、自我、同一性自己を介しているために、他者が同一性化されているのであり、そのために、「他者」への「愛」が押し付け(暴力)になっているのである。
 もっとも、ロレンスは非自己の精神としてのキリスト教的精神を捉えているが、それは、間違っているのではないだろうか。非自己ではなく、自我化した精神だと思う。
 ロレンスは近代キリスト教的精神の発現が科学や機械と見ているが、そのように見る為には、やはり、自我化した、同一性化した「愛」が必要であろう。何故なら、自我のもつ同一性精神こそが、物質を認識するからである。
 だから、ロレンスのキリスト教認識は誤りであると見ることが可能である。
 しかし、近代西欧におけるキリスト教は確かに、ロレンスのように見ることはある意味で正しい。何故なら、近代西欧は、デカルト哲学でわかるように、自我化しているからである。つまり、近代的自我が形成されたからである。その自我における「愛」の精神なので、当然、本来の、差異的な他者への「愛」ではなく、同一性化された他者への「愛」であり、押し付けになるのである。
 では、問題は、ロレンスが何故、近代西欧におけるキリスト教精神を非自己的と呼んだのかである。いわば、自我的な「愛」をどうして、非自己的と考えたのか。
 そう、同一性的な「愛」とは、どういうものなのか分析してみよう。
 思うにそれは一種の情感、ないし、感情であるのは確かであろう。また、意識化されているものであるから、単なる感情ではなく、やはり、自我意識が入るのである。
 本来、非自我(内的他者)主導ならば、自我意識、同一性意識は入らないと考えられる。
 しかしながら、もし、自我的要素が、まったく否定されると、それは、神秘主義になるだろう。反合理主義になるだろう。自我的要素は、いわば、ゼロになる必要がある。それは、自我的要素が抑制された様態と考えられる。
 近代西欧において、キリスト教精神は、非自我性を自我意識、同一性自己意識の下に取込んだものではないだろうか。本来は、自我意識を抑制して、非自我的精神を主導化すべきであると考えられる。
 では、自我意識、同一性自己意識の下にある非自我性、非自我的精神とはどのようなものであるのか。
 これは、単なる同一性主義とは異なる。何故なら、同一性主義は、非自我(内的他者、差異)を否定するからである。
 自我意識の下の非自我性とは、同一性形式の下における非自我性ということである。そう、それは、量的な非自我、同質的な非自我である。あるいは、同一性で覆われた非自我である。
 それは他者(内的他者)の自我化であり、自己所有化である。そう、「愛」ではなく、他者所有性である。ある意味で狡猾な、他者支配形式である。
 意識では非自我的であるが、実際は同一性自己、自我的なのである。
 だから、ロレンスが近代キリスト教精神を非自己的と呼ぶの間違いであるということになろう。
 しかしながら、複雑なのは、ロレンスは自己を無意識的なものと捉えていたことである。ロレンスの無意識は、自我と非自我の極性が
あるのである。
 だから、無意識の自己に対して、自我意識に下の同一性化された非自我的精神が非自己と呼ばれるのは、ロレンスの論理では整合的である。
 これで謎が解けた。
 ロレンスが近代西欧的キリスト教的「愛」の精神を否定するのは、以上のような意味からである。実は、それは、本来のキリストの「愛」の精神ではないと言えよう。
 しかしながら、本質的な問題は、近代における同一性の支配である。それが、キリストの「愛」をいわば偏向させているのである。
 とまれ、ロレンスの混乱、錯誤は、リーダーシップ小説期において、ロレンスの無意識のもつ自己、父権的自己主義が支配的になって、母権・女性原理に対して、否定的、攻撃的になったことである。
 実は、ロレンスの無意識は、深層が母権・女性原理であり、表層が父権・男性原理であり、自己矛盾的なのである。
 そして、リーダーシップ小説期において、両者が危機的に分裂化して、また、激突していると考えられる。しかし、優位になっているのは、表層の父権・男性原理である。
 ロレンスの攻撃目標である近代キリスト教精神であるが、それが、ロレンスにおいて、また、聖母崇拝あるいは、マグナ・マーテル支配と結びつけられている。つまり、近代キリスト教精神と女性・母権原理が結びつけられているのである。
 ロレンスの混乱、錯誤の一つの大きなポイントはここにあるだろう。
 つまり、ロレンスにとり否定すべきは、近代キリスト教精神であるが、それが、女性・母権原理と結びつけられているのである。そのために、ロレンスの意識においては、女性・母権原理を否定するように志向したのである。
 しかしながら、上述したようにロレンスの無意識の自己とは、深層が女性・母権原理であり、表層が男性・父権原理なのであるから、女性・母権原理の否定とは、自己自身の否定となるのである。
 結局、本質的には、ロレンスの無意識の自己矛盾が問題である。それは、私見では、本来は母権的自己なのである。それが、表層化すると父権化するのである。つまり、母権的自己とは母権と父権の矛盾をもつ自己様態と考えられるのである。
 ジュディス・ルーダーマンは、前エディプス期の「貪り食らう母」の概念でロレンスの父権主義を説明しているが、前エディプス期とは、母権的自己様態と考えられる。これは母権原理と父権原理の連続体ないしは未分化様態であり、超克されるべきものである。
 実際は、ロレンスは最晩年の『逃げた雄鶏(死んだ男)』において、両者を絶対的に区別して、両者の共立を表現したのである。
 今はここで留める。