レディー・ガガのサウンドにそっくりだが、ガガより歌唱が繊細で、リリカルである。魂に沁みる。

Katy B - Katy On A Mission - Official Music Video


Best albums of 2011, No 2: Katy B – On a Mission

Not only did Katy B showcase a new direction for dance music, she offered a fresh perspective on love, lust and London nightlife

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Katy B's On a Mission
'It might as well have been written in the smoking area of Fabric' … Katy B's On a Mission

This was the record that finally saw UK underground dance break into the charts, giving dubstep stars Magnetic Man and funky producers Geeneus and Zinc mainstream success. But what makes it one of our albums of the year is that it doesn't dwell on its bleeding-edge beats. Rather, Katy B co-opted the dramatic production of her rave mates to tell stories about London's clandestine nightlife.
http://www.guardian.co.uk/music/musicblog/2011/dec/15/best-albums-2011-katy-b
  D. H. ロレンスは一見不思議なことを述べている。科学とキリスト教精神は非自己性(unself)で一致するというのだ。
 自己Selfのとりかたにもよるが、普通、科学は自我、同一性と関係していると言えよう。確かに、本来の自己とは関係しないと言えよう。
 ではキリスト教はどうなのか。これは難しい。自我において、隣人愛を主張するならば、それは自我的になるだろう。隣人・他者は本来の他者ではなく、同一性の他者である。
 もし、自己を凹iをベースにする個とするならば、確かに、科学は非自己的であり、また、キリスト教も非自己的である。
 ロレンスのキリスト教・近代観は凸i中心性を意味する。そして、自己とは凹i中心性であり、それは差異、感覚を意味する。
 そう、前者は物質性であり、後者は精神性である。
 だから、ロレンス哲学の獅子と一角獣の闘争とは、自己と非自己、差異と同一性、精神と物質との闘争と言えよう。
 ここまでは問題がない。
 しかし、問題はロレンスが前者を否定する事態である。ロレンス哲学、王冠=聖霊哲学によれば、対立の調停が根本的テーゼであり、単なる否定はそこには存在しない。
 しかしながら、自我を否定するとき、自己の肯定が生起するが、それは、超越的存在への融合を意味しよう。第三象限の事象が生じる。
 ロレンスの自己論の問題はそれが個を喪失することである。そうではなく、自己の肯定とは個の肯定であり、同時に、他者肯定である。すなわち、自己=個=他者という図式が生じるのである。
 では何故、ロレンスの場合、自己等が消失するのか、それが大問題である。
 作業仮説であるが、ロレンスの精神はMP1(虚軸点)に存するのであり、MP2(実軸点)が劣位なのである。
そのため、MP2における自我VS個・他者の力学が希薄になる。その結果、自己=個が超越的他者凹に同化、吸収されてしまうのではないだろうか。
 ロレンスの場合、自我、キリスト教はマグナ・マーテルと重なるので、自己肯定は父権主義、男尊女卑になるということではないだろうか。
 これでいちおう説明ができたが、ロレンスの混乱は自己が男性的である点に存するだろう。
 つまり、超越的存在をロレンスは聖書に倣い、「父」として捉えているのであり、そのため、自己が男性的になると考えられるのである。
 しかしながら、ロレンスは「父」は「母」であると述べているのである。これは理論的混乱と言えよう。
 ロレンスの直観では超越的存在は「父」ではなく、「母」なのである。しかしながら、ロレンスは女性原理、母権原理を恐れて、「父」、男性原理、父権原理に固執したと思われる。ここにロレンスの自己矛盾があると考えられるのである。
 思うに、逆説的に凸iの自我原理がロレンスには弱いのであり、それが、凹iの個・他者原理への没入を恐れて、父権原理、男性原理を反動的に主張したのではないだろうか。
 そう、凹iの自己・個・他者原理がロレンスにおいて主導的であるために、根源において、凸iの自我・同一性原理を消失させるのであり、それをロレンスを恐れて、反動的に父権原理、男性原理を激しく主張したのではないだろうか。 
 言い換えると、MP1(虚軸点)に対するMP2 (実軸点)の反動である。
 あるいは、精神に対する物質の恐れと言えるのかもしれない。とまれ、前者が優位であり、後者が劣位なのである。
 結局、このような恐怖の力学が生じる原因は、MP1とMP2との未分化様態に存するのではないだろうか。もし、整然と分離できれば、自己・個・他者・母権への恐れは生じないと考えられる。
 先に、D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11086583581.html
を説いたが、この揺動力学とは未分化力学ということになる。

Books of the Year 2011: fiction

In a year of fruitful reading Keith Miller has enjoyed cerebral offerings from American authors, the mellowing of a French firebrand, and a European novel written in English.


Julian Barnes makes a speech as he is announced as the winner of the Man Booker prize at the Guildhall, London
Julian Barnes makes a speech as he is announced as the winner of the Man Booker prize 2011 for his book The Sense of an Ending Photo: Dominic Lipinski/PA
 

Whether or not we ought to dust off the crusting pipe, roll out the barrel and declare this a vintage year for fiction in English, I can report that it’s been a very happy and fruitful reading year for me. In 2011 American novelists continued their long march uptown: which meant fewer solemn, monumental inquisitions into the lives and loves of cretinous Appalachians and short-order cooks, and more arch excursions round the skulls of well-educated analysands in gentrified neighbourhoods with a decent university within reach, and a great coffee shop on the corner.

Money-madness


Money is our madness, our vast collective madness.

・・・

But it is not money we are so terrified of,
it is the collective money-madness of mankind.
For mankind says with one voice: How much is he worth?
Has he no money? The let him eat dirt, and go cold.--

・・・

We must have some money
to save us from eating dirt.

And this is all wrong.

Bread should be free,
shelter should be free,
fire should be free
to all and anybody, all and anybody, all over the world.

We must regain our sanity about money
before we start killing one another about it.
It's one thing or the other.

pp.486~487 D. H. Lawrence Complete Poems, Penguin Books

D. H. ロレンスは詩人でもあった。私見では、前ソクラテス期の哲学者のような哲学的詩、ないしスケッチ的詩を書く詩人である。私の詩の好みとはずれるが。
 とまれ、その直言は鋭敏で実に今日を予見している。D. H.ロレンス文学・哲学が一般に知られていないのは実に残念である。
 思うに、20世紀初期ないし前期において、超越性の世界が出現したのであるが、それを物質的概念で閉じこめてしまうという誤りを犯したのだ。
 それは、芸術だけでなく、哲学も、自然科学もそうである。
 経済学はどうなのだろうか。ゲゼルの貨幣論は超越性につながるところがあるのではないだろうか。
「彼[檜俊輔:ひのきしゅんすけ]の作品に欠けている凡(あら)ゆる要素が日記の各頁に躍動していたが、それらをそのまま作品に移すことは、生の真実を憎 む俊輔の態度に背くことであった。天稟(てんぴん)のどんな部分も、自(おのずか)ら流露する部分は贋ものだという確信を抱いていた。それにもかかわらず その作品が客観性を欠いていた原因は、彼が拠ったこのような創作態度の、頑なに失した主観的固執にあったのである。生の真実を憎むあまりに、それとあまり に対蹠(たいせき)的に照応した、いわば生身の裸体から鋳型をとられた彫像のごときものが彼の作品だった。」 

『禁色』(新潮文庫)、p. 18

 以上は、三島由紀夫の『禁色』の最初 の箇所から引用したものである。これはよく知られた三島の創作方法を述べたものである。これは表層である。私が述べたいのはこの作品で深層で語っているの は哲学的精神、哲学的知性であるということである。明らかに三島は近代、戦後近代の痴態を批判しているのである。この戦後近代批判を行なっているのは表面 の語り手ではなく、三島の深層にある哲学的知性である。これはいわば表層では隠れているのである。表面の仮相ではなく、深層に測深しないとこの哲学的知性 は認識できないと言えよう。

とまれ、今は三島が本作品で鋭敏な近代批判、近代的自我批判を行なっていること、それは彼の深層の哲学的知性に拠るということを述べるに留めたい。

また、この作品の言語表現は映像的であり、魂の視覚をもって外界を捉えている。そう、詩人の眼がここにはあるのである。

今、予見を言うと、三島の哲学は超越的哲学である。彼は超越的世界から語っているのである。三島文学はこの視点から解明される必要がある。単に仏教的視点からだけではない。そう、明らかにパラドクシカルな、イロニーの表現は、鋭敏な陰陽的視野から来ていると考えられる。

思うに、日本文学ないしは世界文学が貧弱になったのは、三島文学・哲学を的確に認識する文学者、作家の不在が原因である。大江健三郎は当然、理解できなかったし、村上春樹は問題外である。

そう、これまで、三島文学・哲学が理解されたことがあったのかと管見で思う。PS理論によってこそ、解明されると考えられる。

 


resurrectionのブログ

<ノーベル文学賞>スウェーデンの詩人に決まる

毎日新聞 10月6日(木)20時36分配信

<ノーベル文学賞>スウェーデンの詩人に決まる
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ノーベル文学賞受賞が決まったトーマス・トランストロンメル氏=AP
 スウェーデン・アカデミーは6日、11年のノーベル文学賞を、スウェーデンの国民的詩人トーマス・トランストロンメル氏(80)に授与すると発表した。 同アカデミーは授賞理由として「凝縮された半透明なイメージを通して、現実への新しい道筋をつけた」と述べた。詩人への授賞は96年のビスワバ・シンボル スカさん(ポーランド)以来。スウェーデン人の文学賞受賞は、74年の作家E・ユーンソンさん(故人)ら以来。

【ノーベル化学賞】イスラエル工科大教授に 「準結晶」発見

 授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれ、賞金1000万スウェーデン・クローナ(約1億1500万円)が贈られる。【大井浩一】

 ◇トーマス・トランストロンメル氏

 1931年ストックホルム生まれ。ストックホルム大学に学び、心理学者として若い犯罪者のための施設などで働いた。

 54年の最初の詩集「十七編の詩」で高い評価を受け、以後「路上の秘密」(57年)、「半ば出来上がりの天国」(62年)など、神秘的世界をイメージ豊 かに描いた詩集を次々と発表。スウェーデンの戦後を代表する詩人として国際的に知られ、ロシアのヨシフ・ブロツキー(ノーベル文学賞受賞者)、米国のロ バート・ブライら、外国の詩人にも影響を与えた。詩集は多くが英訳され、作品の翻訳も40カ国語以上に上る。

 科学的知識に基づく自然描写に優れ、明快な言葉で独創的なメタファーを駆使し、「隠喩の巨匠」と呼ばれる。短い自由詩が中心だが、会話形式の詩集「バル ト海」、散文詩集「荒れた広場」もある。90年秋、脳卒中で倒れ、言葉が不自由になったが、96年春に出版した詩集「悲しみのゴンドラ」(邦訳は思潮社) では俳句の詩型にも挑戦するなど健在ぶりを見せた。

 他に回想記「記憶が私を見ている」がある。また、音楽に造詣が深く、自らもピアノ演奏を行い、ハイドンやグリーグ、リストなどの曲をモチーフにした詩も書いている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111006-00000094-mai-soci


ノーベル文学賞 スウェーデンの詩人 トーマス・トランストロンメル氏 - 産経新聞(10月6日)

◇プロフィール
The Nobel Prize in Literature 2011 (英語) - Nobelprize.org
評論『トマス・ハーディ研究』において、ロレンスは独自の哲学を展開している(正確に言うと、『王冠』と類似の理論を展開している。『王冠』より早いか、 ほぼ同時である)。とりわけ、キリスト教の三位一体論を活用した極性論は東洋の陰陽論に似るが、世界文学(西洋文学)から例をあげて、具体的に論じてい る。
 簡単に言うと、

「父」(旧約)=「法」=身体(肉体)=闇

VS

「子」(新約)=「愛」=精神=光

という根源的な絶対的対立・矛盾があり、それを調和させるものは「聖霊」である。これは、『王冠』と同じであるが、『王冠』よりは具体的に論じられている。
  これをPS理論的に解読すれば、「父」は凹(-1)と凸(+1)ではないだろうか。そして、「子」は凹i(-i)と凸i(+i)のように思える。言い換えると、実軸と虚軸の対立である。そして、「聖霊」はmedia pointということになるだろう。
また、興味深いのはFleshである。これは、身体、肉体、感覚となるが、物質的身体というよりは、根源的身体のように思える。つまり、dark matterに基づく身体のように思えるのである。
 今はここで留める。

追記:リーダーシップ探求期(所謂、リーダーシップ小説期)において、初期の哲学がおそらく破綻したのである。つまり、極性の均衡が否定されて、つまり、 「子」を否定して、「父」のみを肯定するようになるのである。内在していた二項対立が支配的になり、極性を否定することになった。もっとも、正確に言う と、極性は残っているのであるが、二項対立が強化され、優越的なのである。

追記2:『トマス・ハーディ研究』(ケンブリッジ版)のp. 95に、「法」は女性原理であると述べている。だから、「父」とすると、混乱を招く恐れがある。
 とまれ、ロレンスは独創的な初期哲学から中期において、逸脱するようになると考えられる。つまり、父権主義化したのである。それは、ロレンスの心の弱さの 証明ではないだろうか。「父」=「法」のもつ女性原理(私なら母権原理)を中期ロレンスは恐れた節がある。それを抑圧しようとしたのである。反動である。 ここで、ロレンスの前エディプス的病理がはたらいているのかもしれない。しかし、それを呼び戻した起因があるはずである。
 今の作業仮説では、第一世界大戦やその他の窮境によって、ロレンスは欧州社会・文化に絶望して、破壊的に、否定的になったのである。欧州へのそれまでの 希望が消失したのである。具体的に言えば、世界大戦は機械文明がもたらしたものであり、その機械文明はロレンスに拠れば、キリスト教的なものであり、絶望 をもたらした世界大戦を生んだ欧州文化、即ち、キリスト教文化は否定されなくてはならいとロレンスはドラスティックに極論したのではないだろうか。
 この否定は弁証法的であり、反動的であり、初期哲学の極性論とは不連続なものである。ロレンスの精神の危機と言えよう。自己否定となったのである。

Study of Thomas Hardy - Modernism Lab Essays

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